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Channel: ミロスラフ・メシールのテニス Miloslav Mecir's Tennis
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2014年全米オープン男子決勝 サイバー世界での戦いと現実の戦い

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錦織とチリッチというグランドスラムでの優勝どころか決勝戦の経験すらない二人の戦いとなる2014年の全米オープン男子決勝。日本人とクロアチア人でしかも2桁ランキング同士の決勝戦は、正直なところ、アメリカではそれほど盛り上がらないのだろうと思う。(アメリカのメディアは盛り上げようとするだろうが。)

2009年3月23日の午後、私はアメリカ・サンディエゴでの仕事を終えて、ホテルのスポーツバーで一人で飲んでいた。テレビには日本対韓国のWBC決勝戦が流れていた。覚えている人が多いと思うが、それまでは全く当たっておらず期待を裏切り続けたイチローが、最後の最後で決定的なセンター前ヒットを打ったあの決勝戦だ。決勝戦はロスでの開催だが、予選はそのサンディエゴで行われていた。そのことを考えても、あまりにも寂しいサンディエゴのスポーツバーだった。イチローの決定的なその瞬間でさえ、テレビを見ていたのは私と韓国人観光客らしい3、4人のみ。その瞬間に思わず声を上げた私をにらみつけた数名のアメリカ人の客のことをよく覚えている。もちろんその客はテレビなど見ていなかった。単に、うるさいアジア人だと私の方を見たのだ。

アメリカがどうであれ、ついに日本の錦織が決勝に残ったのだ。おそらく日本のテニス界とメディアは騒然としているだろう。想像もできなかった日本人によるグランドスラムの決勝。錦織は、トップ10の選手を3人も追いやって、決勝のステージに上り詰めた。エキサイトしないわけがない。

決勝戦の相手であるチリッチのコメント。「(錦織との決勝は)2人にとって特別なものになる。どちらにもグランドスラムで勝つチャンスがあるということ。歴史の一部になれるということだ。」

このコメントは、(バルカンの火薬庫とまで言われた)物騒な地域である東ヨーロッパのクロアチアという国からやってきたテニスプレーヤーの言葉と思うと含蓄がある。彼らにとっては、テニスは歴史なのだ。長く続くヨーロッパの歴史の中で、そしてテニスの歴史の中で、彼はプレーをする覚悟なのだ。決勝に臨む気持ちは、そういう意識なのだ。

以前、中国の李娜のことをブログに書いたことがある。彼女が、中国人として、アジア人として初めグランドスラム優勝の試合を見ながら書いたブログだ(李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝)。WOWOWの解説をされている神尾米さんにも読んでいただき、個人的にメールをいただいたことが懐かしい。(神尾さんは、このブログを読んで、優勝の翌日に行われた李娜のプレスインタビューの様子をわざわざ教えてくださったのでした。)

このブログで、私は、李娜がテニスの歴史を持たないアジア人(中国人)が歴史の重圧に打ち勝った瞬間を感じた。アジア人だからこそ分かるその重圧。それを乗り越えた李娜の偉業の意義。

錦織が優勝したら、アジア人男子として初めてのグランドスラム優勝なのだろうか(たぶんそうだろう)。しかし、今の錦織には2011年の全仏オープン女子決勝で李娜に感じた歴史の重圧のようなものを全く感じない。テニスの歴史を持たない日本という国の出身選手がヨーロッパやアメリカのテニスの歴史に挑んでいるという印象がない。

私は、錦織のエピソード(3)で書いた錦織がテレビゲームが大好きだということが頭から離れない。テレビゲームが大好きな子どもという言葉からは、決して良いイメージは湧いてこない。しかし、錦織は、まぎれもなくテレビゲーム世代なのだ。それは、こういうことだと思う。「テレビゲームは錦織の体の一部なのだ、錦織の世界の一部なのだ」と。錦織は、ゲームの世界に生きている。ゲームは限りなく現実(リアル)で、目の前の全米オープンという現実は錦織にとってはゲームなのだ。

錦織は、おそらく歴史など背負う気はないのだろう。錦織にとっては、全米オープン決勝戦は、壮大なリアルゲームの一部であり、ついに到達した最終ステージなのだろう。このステージをクリアすると、錦織は全米オープンというゲームをクリアして、終了することができる。勝利して終了できるのか、負けて再度(つまり来年)、ゲームを再起動(リセット)して挑むのか。

そんな馬鹿なと思うかもしれない。それは考えすぎだと思うかもしれない。しかし私はそうは思わない。それが現代っ子なのだ。サイバーな世界がリアルであり、人生とゲームが自然にクロスオーバーする。私は、それを非現実的と否定しない。それが事実だ。そんなことないだろうというのは、生まれた時にサイバー世界が存在しなかった(私のような)古い世代の人間だからだ。考えてみてほしい。私たちには電車も飛行機も車も、あって当然なものだ。しかし、100年前の人たちは言うだろう。「君たちは電車世代だ・飛行機世代だ・車世代だ」と。電車という非現実の空間を当たり前に生きている私たちに、なぜテレビゲームの現実感を批評することができるだろうか。

歴史と動乱を現実の出来事として背負うチリッチ(そして準決勝の相手であるジョコビッチもそういう国の出身だ)。サイバーなゲームの中で動乱(いわゆる格闘型・戦闘型のロールプレイイングゲーム)をリアル体験している錦織。言い換えれば、今回の決勝戦は、国と歴史を背負ったチリッチと、個人が自分の世界の中で戦う錦織の決勝戦でもある。

この決勝戦は、そういう二人の戦いなのだ。この試合は、その意味でも、テニスの歴史の中でターニングポイントとなる決勝戦となるだろう。そう考えれば、180㎝にも満たない(テニスの世界では)小柄なアジア人が、全米オープン男子決勝にまで進んだ理由がわかる。テニスの神様は、時代の転換をこの若い小柄なアジア選手に託したのだ。

リアルな戦争はもういい。充分だ。これからはゲームの中で戦おうじゃないか。ゲームの中の戦いを、リアルなテニスコートに持ち込めばそれでいいじゃないか。それが平和の象徴じゃないか。

テニスの神様がそんな風に言っていると思うのは、考えすぎだろうか。

1988年生まれのチリッチは、幼いころで記憶はないとはいえ(1990年~1991年)、ユーゴスラビアから独立にするために血が流れたクロアチアで育った。当時、そのためにクロアチアから移住せざるを得なかったセルビア人は20万人とも言われている。背負っている歴史は重く悲しい。

1989年生まれの錦織は、まさにバブルの中で生まれ育った。クロアチアが独立した1990年は、日本ではバブルの絶頂期(崩壊の直前ではあったが)だった。任天堂のゲームボーイが登場したのが、まさに錦織が生まれた1989年だ。当時の日本には戦争という言葉は全く現実感のない言葉だった。

そんな二人の決勝戦をしっかりと見届けたい。

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